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島の紹介HEADLINE

安居島(あいじま)


安居島の最高点は55メートルで、平地はほとんどなく、やや傾斜のある高地で、南向きに湾が開いており、わずかの畑以外は雑木林となっている。
 古くは、合島。相島・愛島・藍島とも表記され、アイとは網代(漁場)を意味するとの説もある。
 江戸時代初期から広島藩と松山藩の間で所属争いがしばしば起こり、交渉の結果、松山藩領となった。
 文化14(1817)年、浅帆船の潮待ち・風待ちの湊浦として賑わいをみせるようになり、安政年間(1854〜59)から明治期にかけてもっとも栄えて遊郭まで存在していた。
 昭和に入り、船が大型・動力化すると港町としての機能が失われ漁浦となった。
 昭和30年代から海運業に乗り出す人が増え、それに伴い人口も同30年の532人をピークに挙家離島が目立ち激減、住民の高齢化は年々進んでいる。

もっと詳しく!(しまの資源を探る!安居島編)

          

興居島(ごごしま)


 瀬戸内海国立公園の中にあり、温暖な気候に恵まれ、周りの海は魚介類も豊富。
 果実の島とも呼ばれるように、ミカンの開花期には、全島花一色になる。
 忽那水軍の島だった歴史もあり、毎年10月6日の秋祭りに演じられる「船踊り」は県指定の無形文化財で、毎年4月20・21日の2日間にわたる「島四国」という八十八ヵ所巡りも有名である。

          

釣島(つるしま)


 興居島とその北約4qにある睦月島の間の海峡は釣島水道と呼ばれ、斎灘と伊予灘を結ぶ交通の要衝であることから、水道西側出口に位置する釣島に明治6年愛媛県で最初の灯台が建設された。
 北端の砂嘴に集落がある。平坦地は少なく、海岸からすぐに傾斜地となっているが、果樹栽培の耕地に恵まれている。
島の産業は伊予柑などの柑橘栽培とタコ壺など農漁業がすべてで、特に伊予柑、タコは極めて良質で、市場では高値で取引されている。
現在も島の後継者は育っている。

津和地島(つわじじま)


 津和地の農業は、柑橘のほか、タマネギ、スイカも作っている。漁業もタコや鯛漁が盛んである。
 鮮魚料理や鯛飯で有名な旅館があり、年間を通じ予約が入っている。秋祭りには、勇壮なだんじりや御神輿が所狭しと集落を練り歩く。全国で初めて建設された、貯水兼用導水トンネルが、この島の水需要を支えており、現在水の心配は解消している。
珍しいおみやげで知られる「みかん盃」や「島のかほり」は、津和地在住の池田さんによって作られている。
 映画「竜二」に主演した金子正次(本名・松夫)は、ブルーリボン新人賞、日本アカデミー新人俳優賞など多くの賞を総なめにし33歳の若さで急逝した。
 この金子は津和地生まれの中島中学校卒業生であり、彼の残したシナリオは後に「チンピラ」(柴田恭兵主演)、「ちょうちん」(陣内孝則主演)が映画化された。
 また、第1回愛媛出版文化賞の誉れに輝いた「八原家御用日記」は津和地の八原諸大名の接待用に、津和地に「お茶屋」を設け、藩士八原佐野右衛門を常駐させ、その任に当たらせました。現在「お茶屋」を忍ぶものは残されていないが、跡地に碑がたてられている。

もっと詳しく!(しまの資源を探る!津和地島編)

怒和島(ぬわじま)


 怒和島では、もともとの集落は島の北側にある宮ノ浦というところにあったが、いつの頃からか上怒和と元怒和の2つの地区に分かれた。平地の少ない島ゆえに、宮ノ浦の平地を畑として利用するためで、特に上怒和地区は斜面を利用して家が建てられている。
 派米農業実習生として、アメリカ合衆国で農業を体験した農業後継者が11名いるなど後継者が多く、進取の気性に富み大変活気のある島で、レモンの島としてその名を知られている。
 柑橘のほかに、タマネギ栽培も多く行われている。
 近海のクダコ付近の海は、タイの一本釣りの漁場として有名である。
 民族芸能も多く伝承されていて、獅子舞は普通の獅子舞よりひとまわり大きい獅子頭と胴を2人で操り、秋祭りに華やぎをそえている。
 また、延福寺の山腹にある大楠の「生木地蔵」、宮ノ浦にある「がいせん松」2世は有名である。
 元怒和港の防波堤の水深は30.4メートルで、完成当時は東北の気仙沼港を抜いて全国一の深さであった。当時、防波堤1メートル築くのに500万円かかったそうである。

もっと詳しく!(しまの資源を探る!怒和島編)

中島(なかじま)


 中島地区の島々で最も面積を持ち、11の集落があり、地区人口の7割近くがこの島に住んでいる。
 みかんの島であり、山の上から平地の宅地部分にまで、みかん畑が広がっており、春、みかんの花咲く頃、船で中島に近づくと、甘い花の香りが歓迎してくれる。
 全長約500メートルの姫が浜海水浴場や、大串キャンプ場、アミアゲ海水浴場など中心的な観光地があり、中島地区のレジャー基地となっている。
 また、トライアスロン中島大会の会場にもなっており、全国的にも人気の大会として参加者も増加し続けている。
 その歴史も、古くは奈良時代から法隆寺の庄園として栄え、南北朝時代には南朝の島として忽那氏の水軍が中島に本拠地を置き活躍した。
 公共施設では、中島支所のほか文化と情報の発信拠点である総合文化センターや、地区の医療を支える中島中央病院などがある。
 祭りでは、宇和間地区の「やっこ振り」などが艶やかな衣装と、行列で有名なほか、虫祈祷は小さな船を海に流すなど、独特の風習が残る。

野忽那島(のぐつなじま)


 各島において少なからず過疎化の傾向にある中、小学校の存亡をかけて、野忽那シーサイド留学制度が誕生した。
 島での留学制度は全国でも初めての試みであったが、家族ぐるみの交流の輪が年々大きくなっている。
 額場(ぬかば)の海水浴場は俗化を嫌う海水浴客で賑わうほか、近くには丸山古墳などの文化財もある。
 愛媛県制作の「船を降りたら彼女の島」の舞台となったのは、この野忽那島の風景として映画の中に登場する。最近木製の遊歩道が整備された皿山からの景色は、美しい瀬戸内を代表する風景としてされている。
瀬戸内の風光を美しい画板で表現する「石崎重利」氏は、ここ野忽那の出身で、その作品は二神島出身の画家、二神司朗氏と同様、総合文化センターで大切に保管、展示されている。

もっと詳しく!(しまの資源を探る!野忽名島編)

二神島(ふたがみじま)


 1972(昭和47)年、世界的権威をもつ地理雑誌「ナショナル・ジオグラフィックマガジン5月号」に二神島が26ページにわたって紹介された。
 この雑誌の内容を集約したものが、アメリカの高等学校の世界地理の教科書「日本と朝鮮」の章にも掲載されている。
 近代化されず、日本古来の美しさを多く残したパラダイスの島として紹介されているが、集落は、現在もその当時のたたずまいを色濃く残している。
 島には、県指定の天然記念物「ビャクシンの自生地」があるほか、艶やかな衣装を着た子供が船の上で踊る、秋祭りの「船踊り」は、珍しい祭りとして有名である。
 また、瀬戸では少ない丸石の浜がある。
 周囲の海域は中島地区屈指の好漁場であり、好物「タイそうめん」ほか新鮮な活魚料理は広くその名を知られ、遠路からグルメ客が訪れる。
 少年の目で瀬戸内を見つめた孤高の洋画家「二神司朗」氏は、ここ二神の出身で、その作品の多くは、総合文化センターで大切に保管、展示されている。
 また、大正時代の篆刻家、梨岡素岳は、晩年13年間を二神島で過ごした。
    

睦月島(むづきじま)


 睦月の縞売り(縞模様の伊予絣の行商)の写真が地理の教科書に掲載されたことがあった。縞売りの全盛期は、大正時代から昭和の初期にかけてだが、睦月島の行商の足跡は全国に及び、海岸沿いには豪邸が建ち並んだようで、今でも睦月島の家は立派な長屋門を持つ家が少なくない。
 行商先の地に定着して、衣料品販売を手がけるようになったため、現在行商の伝統は見られなくなったが、代わりにみかん栽培が産業の中心となっている。
 島の中腹を巡る農道は、延長14.7kmに及び、睦月のスカイラインというべきもので、眺めがすばらしく、道端には「島四国八十八ヵ所」と「西国三十三ヵ所」のミニコースがある。
 また、二股に分かれ偉容を誇る夫婦樟(くす)や忽那水軍の梅の子城跡など見るべきものが多くある。
 
もっと詳しく!(しまの資源を探る!睦月編)